就活に失敗したオタク

就活にしっぱいして無職のオタクの戯言です。

感覚的に生きるときと、論理的に生きるときについて。

  2人の人間に「僕はどういう人間ですか」という質問をしてみよう。すると一人目は「いい加減で感覚的な人間」と答えた。そして二人目は「無駄がなく論理的な人間」と答えた。さて、あなたはどう思うかな。

 

 もしかすると、君は「人の評価なんてあてになんねーな」と2人の評価を疑うかもしれない。けれどよく考えてごらんなさい。確かに「A = B かつA=C」はなりたたない。しかし「1の場合はA=B,2の場合はA=C」というのは考えられる。時と場合によって人の性格や思考は変化する。つまり接する環境が違えば僕への評価も変わるはずなんだよね。

 

 じゃあ、僕の話をしよう。僕は実生活の中で9割以上「いい加減で感覚的」に過ごしている。多くの人間は僕と酒をのんだり、外に遊びにいくとそのような感想を持つ。では、どこで頭を使っているかというと、バイト先でノルマを達成しなくてはならない時や、プロジェクトを前にすすめなくてはならないときである。

 

 頭を使うということは論理的である。ということで、さらに言い換えると「だれでも理解ができるかたち」と言える。たとえば、君が後輩にホールの拭き掃除をさせたいとする。君が一人で行うときは感覚で綺麗になったと感じるまで作業をすればいい。けれど、相手にとって綺麗か汚いかの感覚は異なっている。もし、後輩に君の感覚を伝えるにはこんなもんだと実際に見せてあげるのが有効だろう。けれど、まだ人によっては差ができてしまう。この時持ち出されるのが万人に共通な尺度である。つまり綺麗の感覚を「1平方メートルにゴミの量が1g以下」と言えば、たとえ後輩がフィリピン人でも老人でも、風邪をひいていても、同様にホールを綺麗にすることができる。

 

 君はたかだかバイトでそんな厳密な支持を出すやつがいるか?と疑問に思うだろう。その通りだ。さすがに僕だってこんな露骨な支持はしない。けれど、例えば豊洲で生活する人々や、そこに訪れる人々が安全に過ごすことができる。というのが目的だとすると、どうしても「地中のベンゼンはこれ以下で、ヒ素はこれ以下」と決めなくてはならない。そこには個性もなければ、多様性もなく、あいまいな要素はなに一つない。そういう、非常に厳格で人間味のない世界というのがこの世には存在する。そして、はっきり言って、僕はそういうことが得意だ。

 

 ということで、僕の中には「感覚的なとき」もあれば「論理的なとき」もあることが理解してもらえたと思う。そしてこれは、読んでいるあなたにも少なからずあてはまることだ。

 

 僕が最近難しいなあと思うことは、そのバランスである。想像がつくと思うが、論理的に人と接すると君はすぐに嫌われてしまうだろう。「床は。。。にゴミが。。。いかになるように掃除しろといったはずだ」なんていったらすぐに妻は家を出ていくと思う。日常生活では、あいまいなもの、YESでもNOでもないもの、気分で言い表せるものの存在が必須なのだ。

 

 僕はというと一日中プログラミングをしていると、どうも論理的に人と接してしまいがちが。これはけっこう怖い。だから日常生活ではなるべく感覚的に生きるように心掛けている。さっきまでラーメンが食べたいと言っていたのに、直前になってカレーがいいとわがままを言ったりする。もちろん、相手が同じことをしても咎めたりしない。そういう姿勢がけっこう大事だ。抜き差しならないくらいがちがちな手続きや、その他大勢の人間と闘わなければならないときはいかんなく頭を使おう。それ以外は頭を使わずに感覚的に生きていこう。きっとそれぐあいが幸せだよ。

 

 今日も読んでくれてありがとう。努力をして適当に生きています。あしからず。また明日。