就活に失敗したオタク

就活にしっぱいして無職のオタクの戯言です。

心ここにあらずの会話について

 先日24時間テレビがやっていましたね。番組終了をみはからったかのようなベストタイミングにみやぞんが武道館に到着し、無事に放送を終えました。僕が気になったのは、番組うんぬんではなくて、視聴者の人たちの語り方でした。

 母親や、友人、職場の先輩に「どうも今回のマラソンはみやぞんが走るらしいですね」と話題をなげかけると、みんな知ったような顔をして「みやぞんは運動神経抜群だからねえ」なんて返してくる。僕はその答えが返ってくるたびに、なんだかやるせなくなったし、孤独になった。100キロのトライアスロンをみやぞんにさせることに対して起こりうる批判をマスメディアが証拠を提示して丸め込もうとしているのだろう。とうすうす感じたのだ。

 

 さて、次の話をしよう。

 

 僕は先日年上の女性と二人で食事に行った。お互い初対面にもかかわらず、物思いにふけるのが好きなタイプだったので、「医療とプログラミングについて」とか「イタリアにある経験主義と性行為について」とか、話のトピックはよく移り変わり、それぞれの話についてけっこうしっかりと思考を巡らせてから発言をしていた。思考の経路や方法はその人の人柄がよくあらわれるので好きだ。

 ただ、ある内容の質問を彼女に投げかけると、彼女は決められ(てしまった)答えを食い気味に返した。例えば「お菓子は何を作るのが得意ですか」と質問すると、「なんでもつくれます」と返すのだ。それは「1+1」の答えを求められたようなもので、おそらく彼女にどんなシチュエーションで訊いても同じ答えが返ってくるのだろうなと感じられた。よく思考をして話す彼女だからこそ、それらの言葉は彼女自身から離れたところで生み出された言葉のような雰囲気があった。

 

 この二つの事例に共通するのは、対人の会話にも関わらず、人が思考を放棄してしまっているということだ。

 一つ目の例は、より大きいものに「どうも確からしい」ことを吹き込まれたため、正しさに身を預けてしまったのである。哲学者のハンナアーレントが好きな人は「全体主義が!」と非難するかもしれない。また、統計学経営学をかじったビジネスマンが「ダイバーシティが!」と非難するかもしれない。

 二つ目の例は、おそらくあまりにも頻繁に同じ質問をされすぎたために、その他の答えをあてはめようとする気力を失ってしまったのだろう。どう返そうとも、反応に大した違いがないことを悟ってしまったのかもしれない。そこには諦観を感じることができた。

 

 これは僕だけかもしれないけれど、せっかく目の前に会話をしている人がいるのにも関わらず、こころここにあらずではむなしくならないか?いったいなんのために会話をしているのだろうと考えてしまう。相手のパーソナルの理解を深めたり、共同でなにかを進めるために会話はあるんじゃないかな。やっぱり相手への誠実な受け答えが最も大切なんじゃないかと思わされた。

 

今日も読んでくれてありがとう。それ誰のことば?って聞いてみるといいかもしれない。また明日。