就活に失敗したオタク

就活にしっぱいして無職のオタクの戯言です。

「がんばらない」ことについて。

僕はなるべく頑張らないように心がけて生きている。心がける、なんていうことは、普段なにげなく生活をしていると、つい、がんばってしまうということだ。

とても親切な読者の方は、おまえは何をがんばらないつまりなんだ。と疑問をいだいてくれるはずだろう。僕は「ひとに気をつかうことをがんばらない」ようにこころがけている。うん、たぶん何をいっているかわかないでしょうね。けれど、けっこう大事なことなんだよ。

人は、気心知れた仲の人物を除いて、つねに気をつかって他人と接している。見ず知らずの人と接するときは笑顔を絶やさずに、普段よりも高い声で、はっきりと話すことが常識としてあつかわれている。僕はその習慣を不必要だとはおもわない。むしろ、円滑なコミュニケーションをとるには必要なスキルだと認識している。僕だって、金を稼がないと死んでしまうのだから、必要最低限度のスキルは身に着けている。でもさ、例えば、近所で人とすれ違うようなケースや、休憩時間に仕事先の人と話すとき、そのスキルを発揮する必要はないかなあ、と思うのだ。正しく言うと、せっかく僕みたいな人間と話しているのだから、お互いに習慣的な笑顔は必要ないよと伝えたいのである。

こんなことを考える理由の根本には、僕は性悪説を信じているという事実がとても大きい。人は生まれながらにして、何らかの罪をもっていて、人生を通して乗り越えなければならない。と考えている。なんだ、キリスト教の勧誘なのか?と怪しがるのは無理もない。けれどさ、冷静に考えると、どうもこれは確からしいと思うんだ。人は少なからず、何かしらの罪を抱えていて、それを克服することで精いっぱい頑張っているのだ。もちろん僕はその一人で、毎日、ごしごし身体を洗うようにして汚れを落としていこうと頑張っている。みんな自分のことでいっぱいいっぱいなのだから、じゃあせめて、それを理解している自分に対しては余分な労力を費やすことはないよ。と言いたい。「お互いに、苦労が続きますね」と言葉を交わさずに、ただ顔を見合わせるだけで労いたい。だから僕は頑張らないのだ。

なんだか、まだ僕のことをうさん臭いやつだと疑っているひとがいそうだから、お話を続けよう。坂本龍一は「音楽は自由にする」という自伝を出版している。幼少期から現在に至るまでを回想してつづるのだが、本の序文にこんなことを書いている。

「僕の人生経験をもとに、作品をつくる。すると作品は僕の体から切り離されて遠くに飛び立ってしまう。僕からうまれた作品なのに自分のものではなくなってしまうのだ。当初、それを非常に恐れたし、虚無感を覚えた。しかし、僕のもとを離れることによって、作品は私以外の人々のための作品になる力を得るのである」

つまり、芸術家は自身の身体をそぎ落とすようにして人々に普遍的な作品を生み出そうとしているのである。そして僕は、その特性を利用して、自身の抱える後ろ暗さを身体から切り離し克服しようとする芸術家が多数存在すると考えている。フランシスベーコンやサルバトーレダリもその一人だろう。彼らが特別な才能を持っていたことは疑いのない事実だけれど、自分がもつ罪を一生かけて克服しようとしたという点では、私たちとおなじなのではないだろうか。

もちろん、「え、克服するべき課題?クラブで踊ってればいいじゃん」という人がいることはわかっている。けれど、その人たちも、無意識の領域にあるだけで、きっといつか対面することになるのだ。と、考えると同じような年代で、自分の後ろ暗さに気づき、なんとかしなくちゃ、、と努力をすることができる人はとても誠実で、人生を全うしようという気概をもった人間だ。それはとてつもなく尊いことなんだ。だから僕は彼らの一員として、「がんばらない」を実行しようと思う。それぞれが、自分のことに専念をすることが、結果として、人々の最大の幸福につながると信じている。

 

けっこうあやしい文章になってしまったけれど、読んでくれてありがとう。「がんばらない」ということは、多くの人を救うことができると思うんだ。また明日。