就活に失敗したオタク

就活にしっぱいして無職のオタクの戯言です。

「いいなあ」ってなんだか言いづらくない?って話。

 

先日このようなツイートをtwitterのタイムラインで見かけた。中学二年生の女の子が前沢友作社長の特集番組をみて作文ををしたようである。まずはお手数ですがよんでみてください。
どうだったでしょうか。僕の感想は「いいなあ」でした。もうね、「いいなあ」なんですよ。僕はこの作文で最もすきなところは
” 中には、「ストレスなく着れるのは初めて」と言っている人もいて、見ているだけで私までうれしくなりました。”
というひと分です。
僕はこれを読んで勇気をもらいました。
僕は「いいなあ」が多い人間です。けっこうなんでもいいなあと思っちゃうタイプなんですね。けれど、「いいなあ」は感想であって、そのものの情報ではないんですよね。他人に伝えようとしても、それは「僕が、それをいいと思った」という情報しか与えることしかできません。だからしかたなく「これはさ、色使いがとても繊細で」とか「この時代に残るもものとしては貴重でね」とか相手に有益な情報を与えるという名目で、がんばって「いいなあ」を説明することになります。僕の説明に対して、友達は満足してくれたかもしれないけれど、「僕は色づかいとか希少性にいいなあって思ったんだっけ」という気持ちになっていくんだよね。もっとあいまいで、けれどもっと強い感情だった気がするんだけどなあと首をかしげちゃうんです。
ちょっとだけ、大義な話をするね。
なんだか「悪い」にたいして「良い」が言いづらいと思うんです。それによって僕だけではなく一定数の人間を生きづらくしているんじゃないかなと考えています。その一つの原因として、良いを表現する言葉よりも悪いを表現する言葉のほうが多様で、かつ面白いのです。

note.mu

「嫌われる勇気」の著者、古賀史健さんがそのようなことを言及しているので読んでみてください。たとえばtwitterで喜ばれるのは「この映画いいなあ」より「この映画くそつまんねえなあ」だし、「彼は恰幅があってかっこいい」より「あいつの腹、豚みたいだな」なんですよね。僕はそれはしかたのないことだと思うんだけれど、「いいなあ」を語るには肩身が狭いと思っちゃうんだよね。

 

気づけば、僕はあんまり人に「いいなあ」を言えなくなっていた。「いいなあ」を人に言いたいがために必死になってその理由を探す努力をして、知りもしないうんちくを披露していた。だから中学2年生の「見ているだけで私までうれしくなりました」という言葉を前にして、襟を正すような気持ちになった。見ている「だけ」ときて、私「まで」うれしくなりました。と書いた彼女の表情や頭の中を想像したら、いかに彼女が生き生きと僕に物語っているのかがわかるのだ。それはもう本当に快い出来事だった。「いいなあ」を背伸びをせずに素直にはなすとこんなにも力強いんだよ。まだまだ肩身は狭いけれど、素直に「いいなあ」を伝えてみようと思う。

 

今日も読んでくれてありがとう。「いいなあ」を呟けるSNSがほしいね。また明日。