就活に失敗したオタク

就活にしっぱいして無職のオタクの戯言です。

僕を通して見たいものを見ているだけだ。

最近過去の自分がのこしたツケをあちらこちらまわりながら精算をしている。これはけっこう精神的にこたえるものだ。財布からお金をすっと抜き出すたびに「いったい俺はなにをしていたんだろう」と我にかえることになる。

僕はいま、改めて「僕はそんなよくできた人間じゃないよな」と再確認をしている。すると今までに友達やガールフレンドが僕にかけてくれた優しい言葉がぽつぽつと浮かび上がってくるんだ。そして、「そんなよくできた人間じゃないって」と苦い顔をしながら返答をする自分が続いて浮かび上がってくる。これほど情けないことはない。

もう、ダイレクトな言葉はこれだ

「あなたはしっかりしているから、計画的にお金をつかいそうね」

女子大生の女の子と二回目のデートをしたときに言われた言葉だ。そのときは笑い顔をつくって適当に流してしまったが、今になってじわじわと威力を発揮してきた。僕はけっこう浪費家で、やっかいな人間なんだ。そんないいもんじゃないんだよ。

ちょっと話からそれるけど、こんな言葉も思い出した。

「あなたは白のシャツが似合うよね」

これもガールフレンドがデートの帰りに僕に言った言葉である。その日はひどく暑くて、白のTシャツにオリーブ色の短パンというラフな格好をしていた。デートに着ていく格好としては首をかしげてしまう。けれど彼女は僕に好意的な印象をいだいてくれたようで僕はちょっと嬉しかったのだ。そこまでは素敵な話なんだけれど、つづけてこの言葉を思い出してしまう。

「あなたは黒が似合うわよ」

ギャグ?これは二年位前に一方的に好意を持っていた女の子からもらった言葉だった。女の子と喫茶店でぽつぽつと会話をしていたのだ。僕は黒の生地にキースへリングの犬の絵がプリントされたTシャツとグレーの短パンを履いていた。「あら、犬の絵じゃない。キースへリングね」と彼女は言った。「そうだよ。君が犬が好きだと知って着て来たんだ」と僕はいった。「うん、その犬も素敵ね。それよりあなたは黒が似合うわよ」と彼女が言ったのだ。例の言葉だ。もう僕はシンプルに嬉しかった。自分が着ている服を気に入ってもらえたことや、彼女が僕に似合う色を見定めてくれたことが僕にとって特別な経験だった。

 

これらの言葉は僕を一時的に舞い上がらせたり、深く反省させたりした。けれど、いま思い返すと、はたしてそれらの言葉は僕自身について話していた言葉なんだろうか。と疑問にを覚える。だって本当に僕のための言葉なのならだれがみても「白が似合う」か「黒が似合う」となるべきじゃないか。けれど実際は、見る人によって「僕が似合う服の色は変化する」のである。

本当はさ「僕を通して見たいものを見ようとしている」だけじゃないのかな。という考えに至った。「計画的にお金をつかいそう」という評価も、僕がどういう人間かはどうあれ彼女がそう信じたかったのである。これはけっこうショックな事実だ。それを認めてしまうと、今まで僕にかけられた優しい言葉はただの利己的な目的をもった言葉であって誰も僕自身を正しく理解しようとは思っていなかったということにならないだろうか。

じゃあさ、「そんなよくできた人間なんかじゃないって」という罪悪感を背負う必要はないということになるよね。だって僕が良い人間であろうと悪い人間であろうと、評価をするのは相手側で、相手が好きなように脚色をしているんだから。思い返すと、僕も同じようなことをしている。「もしかして、あの子は俺に気があるんじゃないの?」なんて妄想は最たる例なんじゃないか。そうか、みんな同じように妄想をして楽しく生きようとしているんだ。そうだ。いまさらそんなことを言っても野暮だな。

と、結論にいたったけれど、僕は本当にそれでいいのかなあ。僕に与えられた優しい言葉をけっこう大切にして生きてきたんだ。きっとこれからも、自分をちゃんと理解しようと努めてくれる人を探しちゃうんだろうね。

最後に、もうひとつ思い出した会話をかいて終わろう。

「私にはね能力があるの。相手の言動をみていると、育ちがいいか悪いかを見極めることができるの。それについて私は良いとも悪いとも感じない。ただわかるのね」

「僕はどうなんだろう」

「あなたは育ちがいいわね。どんなに粗暴なことをしてもわかる」

「ふーん。きっと理由を訊いても君自身わからないんだろうな。育ちがいいということは、君にとっていいことなのかな?」

「もう一度言うけれど、それについて良いとか悪いは関係ないのよ」

 

今日も読んでくれてありがとう。みんな自分に都合がいいように生きたいけれど、ちゃんと君を見てくれる人はいると思うんだ。また明日。