知識をつけることは耳かきをすることに似ている。 本論
以前このような文章を書かせてもらったが、今回はいよいよ本論に入ります。読んでいない方はぜひ一読お願いします。
僕は知識をつけたとき、頭の中でめきっめきっ、、、!と音を立てているのを聞くことができる。巨人が山道をかき分けて闊歩するときに生じるような音である。僕の頭の中でいったい何が行われているんだろう。
かっこよく解釈すると、新たな知識が脳に伝達されると、まずは必要な情報かどうかふるいにかけられる。どうやら必要だと判断された情報は、「これはタイプAの情報だ、これはタイプB」と分類されて、その後正しい箱のなかに収納される。「お、これは水原希子の水着写真か。エロい。では今晩のおかずコーナーに入れとこう」といった感じだ。箱の中に入れられた情報はすでに箱の中に集められた情報と関連性を持つ、リンクが生まれる。例えば、水原希子とコムアイがトップレスという観点で関連性を持ち、水原希子と戸田恵梨香が発言に角が立つという観点で関連性を持つようなものだ。僕が頭の中の井戸に「トップレス」という石を放り込むと「水原希子」と「コムアイ」が水しぶきとして浮かび上がってくるのである。
新たに得られた知識は分類されて、正しい場所に保管され、既存の知識と関連性を持つ。このようにして人は知識を蓄積し整理しているのである。
本題に入ろう。僕はこの知識をつけるという行為がどうも耳かきという行為に似ていると思うのである。知識は脳に蓄積されていく行為に対して、耳かきは障害を取り除く行為なので、一見するとまったく逆のイメージを持ちがちだが、ある観点に立ち戻るとどうやら二つの物事には深い関連性があるようである。
なぜ人は耳かきをするのか。身体的な快楽に加えて、障害を取り除き利用可能なスペースを広げて確保することに快感が伴うからだと、僕は前の記事で記している。知識をつけることに対しても後者のイメージを持つことができる。知識をつけることは物事との関連性を生み出していくことである。水原希子という情報とリンゴがリンクするかもしれないし、メンフクロウがリンクするかもしれない。一見関連性のない物事に関連性をみつけていくことで、僕たちはより世界を複雑に(あるいはありのままの姿に)理解することができるのではないだろうか。子供は蝶をみてもきれいだとか、成虫だとかしか考えることができないが、複雑科学系の教授なら蝶をみて台風を連想することができる(よくわからない人はバタフライ効果と検索エンジンに放り込んでください)人は情報の関連性の中で豊かに世界をとらえうるのである。
このとき僕は知識をつけることはまさに、自分の周りに存在する世界の領域を自らの手で押し広げる行為なのではないかと考えるのである。人は無知のままに生まれてくる。そして人が行動できる範囲はその人が理解しうる世界そのままの領域なのである。人は知識をつけるたびに外壁にスコップを突き立てて、ほんの少しずつ外壁を崩していくのだ。そして自分の領域をより広くしていくのである。
知識をつけることは快感が伴う。それは耳かきに見られるように、障害を取り除き、利用可能なスペースを広げることの喜びに他ならないのではないか。快感という観点で考察すると、知識をつけることは耳かきをすることと似ているのである。