就活に失敗したオタク

就活にしっぱいして無職のオタクの戯言です。

どうして僕が言葉というものにこだわるのか。お姉さんについて。

 どうして僕が言葉というものにこだわるか。と考えたら、やっぱりモノやコトを(多くの場合は自分自身を)相手に「正しく」伝えたいからだ。
 どうしてそんな地味(とされる)ことにこだわりつづけることができたのか。と考えたら、いつだって僕の背中をおしたり、僕の脚をひっぱったり、僕の尻をけとばしたりしたのは言葉だったからだ。ひとつひとつ話し出したらキリがないけれど、本当に、いつだって言葉だったのだ。涙がでそうになるくらい、僕は言葉に感謝をしている。

 

 僕は大学に入りたてのころ、twitterで裏垢と呼ばれるサブアカウントを作った。ネガティブな理由とポジティブな理由があったのだが、あえてポジティブな理由をはなすと、「もっとたくさんの人とつながりたい」という欲求が自然とtwitterに導いたのだ。


 作ったばかりの裏垢は、僕の知的好奇心を短期間に、そして十二分に満たしてくれた。初めて、自分の身体に値段を定めて売り出している女性をみたとき、僕は手が震えたことを覚えている。彼女たちを「けしからん!」としかりつけ(たい)人が世の中にはいるけれど、僕にとっては、どうして身を売るに至ったのか、どのような気持ちで身を売っているのかということが興味の対象だった。僕は200人くらいの女の子たちのリストを作って管理し、ある程度理解が及んできたところで、DMを使って本人に質問ををする。という作業を続けていた。
 と、書いてしまうと、「犯罪者予備軍かな?」とか「特殊性癖をもった変態かな?」と思われるかもしれないよね。けどね「事実は事実として受け入れざるを得ない」と考えるし、「やさしさは、事実のなかにしか存在しない」と僕は考えている。反論があればコメントをください(ニッコリ)


 さて、ある程度裏垢を運用して、例のリスト以外にも様々なリストを作っていった。僕が最も興味を惹かれていたのは「言葉の人」というリストの人たちだった。中には、歯に衣着せぬ発言で人気を博しているアルファツイッタラーや、日常のささいな物事を丁寧な言葉で語る小規模なアカウントがいた。

 いちばんのお気に入りのアカウントは、当時渋谷に住んでいる29歳の女性のアカウントで、今日食べたドーナツの話や、近くの川にサクラを見に行った話や、上司の愚痴などをぽつぽつと呟いているアカウントだった。
 正直、アラサーの女が日中に何を食べたとか、上司の口臭についてとか、まったく興味がわかないじゃない。けれど、なぜか渋谷在住29歳独身の呟きが面白くって面白くってたまらなかった。それで、意を決して、彼女にあいさつ代わりにリプライを送ったのだ。「初めまして。かなとです。いつも拝見させていただいています。素敵な呟きをされますね」みたいな芋臭いやつだ。
 当時の僕は、モノクロの太宰治のトップ画像で「幸福とは」みたいなことを呟いていた。まーあ、とっかかりのない、できたら触れたくもないアカウントだったでしょうね。そのアカウントが「いつも拝見させていただいています」だなんて低姿勢で近寄ってくるんだから、そりゃあもう怖かったろうと思う。


 いまだに理由はわからないけれど、彼女は僕に返信をくれた。

「あなたにそんなことを言われるなんて、うれしくて小躍りしてしまいますわ」

 だった。まだ覚えてる。もうとにかくうれしかったことを覚えている。「どうもありがとうございます。いえいえ、かなとさんの呟きのほうが。」みたいな定型文だったらこんなにも感動しなかっただろう。


 「あなたにそんなことを」で、まずは相手を立てている。僕みたいな年下の、頭の固そうな人間を、まずは認めてくれたのだ。そして、同時に普段から僕の呟きをみていることも暗にほのめかしている。
 「小躍りしてしまい」ときて、もううれしさは最高潮だ。アラサー女性が僕のリプライで小躍りしている。なんて無邪気なんだろう。思わず彼女が自分の部屋の中でスマホを持ったままえっさえっさ身体を動かしているのを想像する。それはもう、間違いなく嬉しいのだろうな。と信じたくなる。
 「ますわ」と締めくくる。これは最後の最後にアラサー女性として、精一杯の振る舞いをして体裁をとろうとしていることがうかがえる。まるで、いまはっと思い出したように。

 

たった一言の返信だけれど、僕は彼女の喜びを動的に想像することができた。まず、リプライを確認し、年柄でもなく部屋のなかで踊る。そしてハッと自身がそんな年齢じゃにことを自覚して、とっさに年上ぶった振る舞いをする。漫画なら1ページくらいの量がありそうでしょう。

そして、このイメージから、「分けてだてなく接することができる」「非常に素直だがお転婆」「大人の女性としての余裕」などのパーソナルな情報を読み取ることができた。
「言葉になじんでいる」という美しさが彼女にはあった。奇をてらおうとも媚びようともしていない。ただ自分の言葉をそっと僕に語りかけただけなのだ。

 自分自身を守るために、または大きく見せるために言葉を身にまとっていた自分には、目からうろこだった。そして、僕もこんな風に、言葉に寄り添えることができたらどんなに素敵なんだろう。と考えた。間違いなく、僕が言葉を意識し始めたきっかけは、あまりにも美しい言葉を僕にくれた、あのお姉さんだった。
 まだまだトプ画が太宰治のころから変わることができていない部分がある。しかし、「あの言葉」という、確かな方向が僕にはある。どんなに間違ったほうに進んだり、あるいは道に立ちすくんでしまっても、僕にとって、そちらに歩んでいるのなら、オールオーケーなのだ。今日も僕はお姉さんの背中をおって文章を書いています。涙が出そうなくらい、僕はあなたに感謝をしています。

 

今日も読んでくれてありがとう。太宰治の言葉をかりる。「私はなんにもしりません。しかし、伸びて行く方向に陽が当たるようです。さようなら。」

 

 

 

 
 

 

 

樹木希林さんの死を落として返ってきたもの。

 

樹木希林さんが亡くなった。時事について文章まとめるのは気がひけるけれど、仕方がない。今日はかいてしまう。

 

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www.1101.com

きっかけはほぼ日の記事を読んだからだった。糸井重里さんが余命3年と宣告された写真家と「生きることと死ぬこと」について対談をしていた。全6回の記事の最後は、「死んだ後に生きる」というテーマで構成されていた。糸井さんがこの世の中に残された作品や思想は数えきれない。糸井さんがこの世にいなくなっても、MOTHERを遊ぶ子供や大人やお姉さんたちが、ふっと糸井さんを思い出してくれる。そしたらずっと誰かの中で生きていける。それって素敵なことだよね。という話だった。

僕は特に感動しなかった。つまり、左右上下、どこにも感情は動かなかった。というのも、「このての話は話しつくされている」ような気がするからだ。「糸井重里さんがAについての話をした」という事実が残っただけである。もちろんそれで、救われる人々がいる、ただ僕にはまだ理解できそうにない。ただリストに格納されただけだった。

(使い古されたテーマを扱っても誰かが読んでくれるのは、信頼があるからだと感じた。文章を書く者の信用は、人柄と文体なんだろう。職業的な文章書きは本当に素敵だなあという記事もかいておきたい)

 

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「人は二度死ぬ」と言ったのは音楽の教師だった。僕は中学3年の夏に部活を引退すると、合唱部のスカウトを受けて、毎日のように合唱の練習をしていた。先生が選曲した自由曲は中学生には扱いきれそうにないものだった。技術的な問題がある上に、死生観が強い作品だったのだ。

僕のなかを掠めるものは

 

僕のなかを掠めるものは、いつもとどまれ。おまへはうたへ。骨よ、頰よ、散り挫け、いのちを飾れ。僕の歌よ、おまへは息をつまらせて、明るい時の下で死ね。

 空より花は振るがよい。くやしみは僕を燃やすがよい。だが、歌、おまへはうたへ。瘠せた心は乾枯(ひか)らびた。言葉よ、立ち去れ。僕の歌よ、のこれ。おまへは僕を嚙みつくし、腦天の上でへどを吐け。

 昔、みれんは船に乘り、湖水にランプを浮べたが、あれは僕ではないだらう、僕よ、傷よ。おまへは船につながれて、藻草をわけて沈んだが。かたちよ、立ち去れ。おまへを捨てろ。

 落ちる日、飛べ。輝かしい愚かな小鳥、おまへの千のいのちのために。星へ、骨へ、後悔よ、羽ばたけ。僕を掠めて飛ぶものはいつもかがやけ。おまへはうたえ。明るい時の下で死ね。

youtu.be


うん、中学生のがきが味わうには早すぎる。いま改めてそう思う。先生は技術的な問題に着手すると同時に、難解な歌詞の解釈にも取り組んでいた。ある日、先生は僕たちに言ったのだ。「人は二度死ぬ」と。そして「二度目の死はいつ訪れるだろう」と僕たちに問いかけた。見当もつかない僕たちは、ただうつむいていることしかできなかった。しばらく時間をおいて、先生は僕たちにいった。「それは、忘れられたときよ」と。

僕は非常に妥当な答えだと感じた。先生が僕たちに伝えたいこともよく分かった。例も提示することができる。けれどそれは、僕にとって「隣の芝は青い」くらいの慣用句として扱われた。そしてリストに格納されただけだった。

 

List_death[2]

「キャラバン」というジャズのスタンダードナンバーがある。1935年にデュークエリントンによって作曲され、1937年に歌詞がつけれれた。

youtu.be

聴いたことがあるかわからないけれど、ほんの少し足を踏み入れると、それは「かえるのうた」くらいの常識として扱われる。お客さんも「お、キャラバンか。いいね」となるし、プレイヤーに至っては、「じゃあキャラバンでもやりますか」と言って、テンポとキーだけ確認したらいつだってセッションができる。なんなら「今日は疲れちゃったからヴォサノバ調にするかー」なんてこともできる。まったく恐ろしいもんだ。

もし、曲を演奏されるたびにデュークエリントンが引っ張り出せれているなら、彼は毎日大忙しだろう。毎晩毎晩小さい会場にも、でかい会場にも、田舎にも、都市にも、顔を出さないといけない。セットリストを確認して、よし今日は出番なしだ!と家で晩酌していても、いきなりアンコールで呼び出されるなんてこともしょっちゅうだろう。まったく恐ろしいもんだ。

なぜか僕にとってキャラバンというスタンダードナンバーはこのリストに格納されている。

 

さて、死にまつわる事象をそれぞれ紹介してみた。まだまだ格納された要素はある。今回、樹木希林さんの話を投げ込んで帰ってきたものがこの三つだったということだ。先に言ってしまうと、この記事には結論がない。ただ、そういうものだ。と書きたくなってしまったのだ。断っておくが、普段の僕ならまずこんなことはしない。結論のない記事にどれほどの価値があるか僕にはわからないからだ。

今日も読んでくれてありがとう。明日はちゃんとしたものを書こうかな。また明日。

 

 

「内容2 タイミング8」の会話について。

 

atomryu.hatenablog.com

  過去にこのような記事を書いていました。あまりにコミュニケーション能力が低くなっているように感じて危険を感じ始めていたのです。そして最終的に僕は「やっぱり会話の誠実さが大切なんだ」と結論に至ります。

 

 今の僕は、過去一年間を振り返って一番コミュニケーション能力が高くなっている。理由は明快で、毎日たくさんの人と会話を繰り返したからだ。ある時はまったく実のない会話だとわかりつつ辛抱強く会話を続けた。そうすると、「技術としてのコミュニケーション能力」がメキメキ上達してしまったのだ。「技術として」というのは、誰とどんな状態で会話をしようともある程度軽快な会話を楽しむことができるスキルという意味で、具体的なものを示すと「タイミング」とか「間の取り方」とか「相手の持ち上げ方」とかが挙げられる。

 つまり、会話のスキル云々に関わらず、相手に誠意を持つというスタイルからは対極の会話と言えるかもしれない。おまえ、言ってたことと違うじゃんと指をさしたい気持ちはわかる。僕だって大丈夫?と疑問に思うことがある。けれど、できるようになっちゃったから仕方がないんだもん。今回はこのスキルを実装した会話について書いてみる。

 

 僕がいままでしてきた会話はいうなれば「内容9 タイミング1」の完全に内容に重きを置いたものだった。相手が発言した内容をそのまま呑みこんで、たっぷりと時間をかけて考えてみる。その間、相手は辛抱強く口を開くのを待つ。これに対して、スキルのある会話は「内容2 タイミング8」という内訳になっている。これはどういう会話かというと、核心を触れて濃密な情報を得るというよりも、簡単なジャブをタイミングよく打ち合って、会話自体を楽しむものだ。極論を話してしまうと、「ちんこ!」とベストなタイミングで発言すれば、会話が成り立つし、むしろ会話の運びが円滑になったりする。

 

 僕がこの会話を実際に経験してみて感じるのは「即興音楽に近い」ということだ。ジャズの即興パートであったり、ストンプ(身近な道具を打ち合わせることでパーカッションを楽しむ音楽)に通じるものがある。

 「ジャズの本質は即興にあり」という言葉ある。ジャズというのは多様な人種の人々が音楽という共通の言語を使用して心を通い合わせる。それは即興と呼ばれる、メロディにしばられず、自由に音を奏で、時に相手に身をゆだねたり、導いたりする場面で色濃く現れるのだ。彼らは自分たちの出身地や宗教、個人的な思想を話したりしない。ただ、演奏された音に自身の音を重ねることで相手のことが「わかる」のである。

 これは「内容2 タイミング8」の会話に似ているのだ。僕は自分の思想を直接語ったりしない、そのかわりに昨日食べたものとか、睡眠時間とか誰だって簡単に理解できる重要ではない言葉を意図的につかう。相手もそれに乗ってちょっと食い気味に「僕もです!」とか、あえて間をおいて「えー、そんなことあります?」と返してくる。このシンプルなやり取りを繰り返していくと、独特なグルーヴが会話のなかに現れるんだ。最初は自信なさげだけれど、会話がエキサイトするにつれて次第に大きくなり、あるとき最高潮を迎える。これがねえ、めちゃくちゃきもちがいいんだ。ピアノとドラムがどんどん遠くに行っちゃって「これ戻ってこれるのか。。」と心配しながら真剣に耳を傾けて待っていると、意外なところから現れて素晴らしい着地をきめる。それを目撃して、とんでもない快感がどっとやってくる。まさにあれなんだ。

 

 僕がこの会話を体験して感じたのは「会話は手段であって、問題はどう相手を理解するか」ということだ。直接君はどういう人間なんだと聞いてみてじっくり考えてみるもいいし、相手との即興会話を通して「わかる」のでもいい。手段を突き詰めて習練するもいいし、手段をたくさん持つのもいい。

 僕は魚を食べたければ肉を食べたいときもある人間だから、手段をいくつか残しておこうと思う。人と会話をしないとどんどん衰えていくので、定期的な会話をする機会を作らないとね。

 

今日も読んでくれてありがとう。食も文化も雑食ときたら会話も雑食だったよ。また明日。

 

 

 

 

 

 

「季節の本質は移り変わることだと思う」について。

こんばんは。嵐が来る前に、なんとか文章を書いてしまおうかと思います。

 

 「季節の本質は移り変わることだと思う」というつぶやきをtwitterで大学の先輩がしていた。「おいおい本質だなんて、若造になにがわかるねん」とつっかかりたくなる人がいると思うんだけど、考えれば考えるほど、これは確かな事実じゃないか?と感じてきた。それについて書いてみる。

 

 季節という言葉は春夏秋冬の4つの季節を表す言葉として使われる。つまり、地球の気候は365日間の中で暑くなったり寒くなったりして循環を続けているわけだけど、それを大まかに4つの状態にわけてしまおうということだ。これは結構便利で「おまえ一番好きな季節は?」と尋ねると、答える人は「夏だよ」と即答することができる。それを聞いた質問者は「ああ、こいつは気温と湿度がたかく、レジャーが活発になるあの期間がだいたいすきなんだな」とわかるわけだ。毎度毎度これを説明する手間が省けるので、こうした共通の概念を持っていることは便利だよね。

 

 けれど、春夏秋冬という価値観が季節そのものを示すのか?と考えると、違うんじゃないの。と言いたい。地球の気候は刻一刻と暑くなったり寒くなったり変化を続けている。一分後にいきなり気温が20度下がって雪がふってきました!みたいなことはまず起こりえない(ちょっと楽しそうだけどね) 実際は半年かけてすこしづつ気温が下がっているわけだ。その変化はあまりにも微細なので僕たちは意識することもほとんどあない。「このダイナミズムそのものが、季節じゃないのかな」ということを先輩は言いたかったのだと僕は解釈した。

 

 季節というものが、移り代わる環境そのものということはわかってきた。ここで僕は「季節の本質を愛でられたらいいなあ」と思うわけだ。だって、今まで夏が好き!とか概念ばかりを愛でてきたわけだから、季節の噂話をきいて好きとか嫌いを決めていたにすぎないじゃない。本当は、季節を自分の目でみて好き嫌いを判断したい。

 で、これがとても難しいんだよね。というのも、人は変化量を可視化することでしか流動的なものを扱うことができないからだ。例えば、今が夏(と呼ばれる状態)だとして、あなたはどのように秋がやってきたと感じるだろうか。ある人は、テレビの週間天気予報をみて日ごとの平均気温を確認すると、三日前の気温と比べてずいぶん下がっていたから秋がきたのだと感じるかもしれない。ある人は、朝起きると想像していたよりも寒くて、今日は上着がいるなあと秋物の服をクローゼットの中から引っ張り出しているときに秋だなあと感じるかもしれない。これらの行為は、気温という評価基準や、来ている服の種類や数といった季節とは異なるものを基準として扱っている。どれだけ考えても、可視化を行わないと難しいよなあとお手上げ状態になってしまうわけだ。

 

 リアルタイムの航空画像ならどうだ、いや、だめだ。みたいないたちごっこを続けていると、僕は季節を積分しようとしているんだなあとふと思った。ようは変化するそのものは扱えないから、限りなく細かいものを積み重ねることで疑似のものを作り出そうという試みだ。で、あきらめました。人間には物理的限界があるからです。「無限回」という言葉を日常会話で使用するのはどうしようもないオタクくらいだからね。

 だから、僕たちができることは、なるべく細かな(ささいな)ことで変化にきづけること。その手段をたくさんもっていることじゃないかな。「俺夏が好き」じゃなくて「入道雲が浮かんでる景色がすき」とか。ニュースキャスターが秋の訪れを告げてはっと気づくのではなく、木々の色合いの変化に気づけるようになったりね。なるべく身近なもので、自ら気づくという姿勢が、きっと「季節の本質」を理解する助けになると思うんだ。

 

今日も読んでくれてありがとう。まけをみとめてしまうことも大事だったりするよね。また明日。

心ここにあらずの会話について

 先日24時間テレビがやっていましたね。番組終了をみはからったかのようなベストタイミングにみやぞんが武道館に到着し、無事に放送を終えました。僕が気になったのは、番組うんぬんではなくて、視聴者の人たちの語り方でした。

 母親や、友人、職場の先輩に「どうも今回のマラソンはみやぞんが走るらしいですね」と話題をなげかけると、みんな知ったような顔をして「みやぞんは運動神経抜群だからねえ」なんて返してくる。僕はその答えが返ってくるたびに、なんだかやるせなくなったし、孤独になった。100キロのトライアスロンをみやぞんにさせることに対して起こりうる批判をマスメディアが証拠を提示して丸め込もうとしているのだろう。とうすうす感じたのだ。

 

 さて、次の話をしよう。

 

 僕は先日年上の女性と二人で食事に行った。お互い初対面にもかかわらず、物思いにふけるのが好きなタイプだったので、「医療とプログラミングについて」とか「イタリアにある経験主義と性行為について」とか、話のトピックはよく移り変わり、それぞれの話についてけっこうしっかりと思考を巡らせてから発言をしていた。思考の経路や方法はその人の人柄がよくあらわれるので好きだ。

 ただ、ある内容の質問を彼女に投げかけると、彼女は決められ(てしまった)答えを食い気味に返した。例えば「お菓子は何を作るのが得意ですか」と質問すると、「なんでもつくれます」と返すのだ。それは「1+1」の答えを求められたようなもので、おそらく彼女にどんなシチュエーションで訊いても同じ答えが返ってくるのだろうなと感じられた。よく思考をして話す彼女だからこそ、それらの言葉は彼女自身から離れたところで生み出された言葉のような雰囲気があった。

 

 この二つの事例に共通するのは、対人の会話にも関わらず、人が思考を放棄してしまっているということだ。

 一つ目の例は、より大きいものに「どうも確からしい」ことを吹き込まれたため、正しさに身を預けてしまったのである。哲学者のハンナアーレントが好きな人は「全体主義が!」と非難するかもしれない。また、統計学経営学をかじったビジネスマンが「ダイバーシティが!」と非難するかもしれない。

 二つ目の例は、おそらくあまりにも頻繁に同じ質問をされすぎたために、その他の答えをあてはめようとする気力を失ってしまったのだろう。どう返そうとも、反応に大した違いがないことを悟ってしまったのかもしれない。そこには諦観を感じることができた。

 

 これは僕だけかもしれないけれど、せっかく目の前に会話をしている人がいるのにも関わらず、こころここにあらずではむなしくならないか?いったいなんのために会話をしているのだろうと考えてしまう。相手のパーソナルの理解を深めたり、共同でなにかを進めるために会話はあるんじゃないかな。やっぱり相手への誠実な受け答えが最も大切なんじゃないかと思わされた。

 

今日も読んでくれてありがとう。それ誰のことば?って聞いてみるといいかもしれない。また明日。

 

 

 

感覚的に生きるときと、論理的に生きるときについて。

  2人の人間に「僕はどういう人間ですか」という質問をしてみよう。すると一人目は「いい加減で感覚的な人間」と答えた。そして二人目は「無駄がなく論理的な人間」と答えた。さて、あなたはどう思うかな。

 

 もしかすると、君は「人の評価なんてあてになんねーな」と2人の評価を疑うかもしれない。けれどよく考えてごらんなさい。確かに「A = B かつA=C」はなりたたない。しかし「1の場合はA=B,2の場合はA=C」というのは考えられる。時と場合によって人の性格や思考は変化する。つまり接する環境が違えば僕への評価も変わるはずなんだよね。

 

 じゃあ、僕の話をしよう。僕は実生活の中で9割以上「いい加減で感覚的」に過ごしている。多くの人間は僕と酒をのんだり、外に遊びにいくとそのような感想を持つ。では、どこで頭を使っているかというと、バイト先でノルマを達成しなくてはならない時や、プロジェクトを前にすすめなくてはならないときである。

 

 頭を使うということは論理的である。ということで、さらに言い換えると「だれでも理解ができるかたち」と言える。たとえば、君が後輩にホールの拭き掃除をさせたいとする。君が一人で行うときは感覚で綺麗になったと感じるまで作業をすればいい。けれど、相手にとって綺麗か汚いかの感覚は異なっている。もし、後輩に君の感覚を伝えるにはこんなもんだと実際に見せてあげるのが有効だろう。けれど、まだ人によっては差ができてしまう。この時持ち出されるのが万人に共通な尺度である。つまり綺麗の感覚を「1平方メートルにゴミの量が1g以下」と言えば、たとえ後輩がフィリピン人でも老人でも、風邪をひいていても、同様にホールを綺麗にすることができる。

 

 君はたかだかバイトでそんな厳密な支持を出すやつがいるか?と疑問に思うだろう。その通りだ。さすがに僕だってこんな露骨な支持はしない。けれど、例えば豊洲で生活する人々や、そこに訪れる人々が安全に過ごすことができる。というのが目的だとすると、どうしても「地中のベンゼンはこれ以下で、ヒ素はこれ以下」と決めなくてはならない。そこには個性もなければ、多様性もなく、あいまいな要素はなに一つない。そういう、非常に厳格で人間味のない世界というのがこの世には存在する。そして、はっきり言って、僕はそういうことが得意だ。

 

 ということで、僕の中には「感覚的なとき」もあれば「論理的なとき」もあることが理解してもらえたと思う。そしてこれは、読んでいるあなたにも少なからずあてはまることだ。

 

 僕が最近難しいなあと思うことは、そのバランスである。想像がつくと思うが、論理的に人と接すると君はすぐに嫌われてしまうだろう。「床は。。。にゴミが。。。いかになるように掃除しろといったはずだ」なんていったらすぐに妻は家を出ていくと思う。日常生活では、あいまいなもの、YESでもNOでもないもの、気分で言い表せるものの存在が必須なのだ。

 

 僕はというと一日中プログラミングをしていると、どうも論理的に人と接してしまいがちが。これはけっこう怖い。だから日常生活ではなるべく感覚的に生きるように心掛けている。さっきまでラーメンが食べたいと言っていたのに、直前になってカレーがいいとわがままを言ったりする。もちろん、相手が同じことをしても咎めたりしない。そういう姿勢がけっこう大事だ。抜き差しならないくらいがちがちな手続きや、その他大勢の人間と闘わなければならないときはいかんなく頭を使おう。それ以外は頭を使わずに感覚的に生きていこう。きっとそれぐあいが幸せだよ。

 

 今日も読んでくれてありがとう。努力をして適当に生きています。あしからず。また明日。

 

 

 

 

 

 

 

コミュニケーション能力の衰えをどうするか。

なるべく頭を使わない文章を書いてみる。

 

 僕は最近になって「コミュニケーション能力が落ちてきたのかも」と僕然とした悩みを抱えていた。人と会って話をするが、どうも会話に面白みがない。くだらないジョークから人生への深い考察まで、どんなトピックを扱おうとも、身が入らない。ギアを上げるべきなのか。と考えて、ちょっと声を張ってみたりじっくりと会話の内容を考えて発言してみるがどうもだめだった。一年前の僕は、誰とどんな話をしても何かしらの気づきがあったようだし、現在の自分の生活に生かすことができた。急にそれができなくなってしまったのだ。

 

 さて、なぜだろうと自室で寝転がって考えた。しかし、いっこうに答えの糸口をつかむことができない。しかし、今日、派遣のバイトに出かけてアルバイトの人たちと会話をして思ったことがある。 

 

 派遣の仕事は非常に流動的だ。突発的に現れる現場に必要な人員を送り付ける。人であれば誰だっていい。特別な知識や技術もいらない。ただ決められた時間に指定された人数の人間が現場にいれば、ことは円滑に進んでいくのだ。巨大なグループの中からランダムで人が集まるので、基本的に当日一緒に仕事をする人間は面識がない。僕たちは「初めまして」から始まって「最近現場はいってますか」とか「あの現場はわりにあわないですよ」とか当たり障りのない会話をする。ちょっと彼らの人となりがわかってきたところで、バイトは終わり、その後の人生でもう会うことがない。人との交友という点で派遣の仕事は非常に特殊だった。

 

 今日、現場で弁当を食べながら考えた。「もしかしたら、俺は繰り返される初めましてに飽きてしまったのかもしれない」そして「今まで交友のあった大切な人にまで、何も期待せずに接してしまっているかもしれない」という答えがふっと頭に思い浮かんだ。そしてどうやらそれは正しいことだ僕は思った。僕は人への興味をはなから失っているのだ。興味をもたず期待せず、ただなんとなく会話を継続させていただけなのだ。

 

 そして、今から僕はどう改めるべきかを考えた。「長い時間をかけて培った関係を大切にする」というのが僕の答えだ。「初めましての出会いを大切にする」というのも人によってはありだと思う。けれど僕にとってはそこまで大事なことじゃない。それよりも「数ある初めましての中から、関係を築くにいたった人々は他の人と比べて特別な何かがあるに違いない」と考えたい。時間をかけて培ってきた関係を、たまに薪をくべて温め、火が消えてしまわぬように保つということが必要なんじゃないかな。彼らのことが気になって仕方がなくなる。そして、自然と彼らに話しかけてしまうんじゃないだろか。きっとそれがちょうどいいのだ。

 

今日も読んでくれてありがとう。結局大事なのは相手に興味を持つことなんじゃないかなあ。また明日。